モロモフ号。 船の底に近い階層からチャイカを追いかけてディミトリは飛び出そうとした。 しかし、彼の耳にコッキング音が聞こえた。後ろからだ。迷わず音のした方に自動小銃を向けての引き金を引いた。 一瞬のためらいは自分の安全を脅かす。兵隊時代には確認してから引き金を引けと言われた。だが、傭兵になった時には引き金を引いてから確認するようになった。そうしないと生き残れないからだ。(あの時だって俺は生き残りたかっただけだ……) ディミトリは戦闘で突入するビルに、窓から中に手榴弾を投げ込んだ。事前に安全を確保する為だ。 爆発した後に踏み込んでみると出鱈目な状態になった子供の死体があった。何で戦闘地域に子供がいるんだという思いと、彼らが腹に爆弾を巻かれている光景も合わさって鬱になってしまった。 それ以来、子供を見ると散らかった死体を思い出してしまうように成る。後にPTSDと診断されたのだ。苦い記憶だった。 そんな兵士として使い物にならなくなったディミトリを励ましてくれたのがチャイカだった。 引き金を引きながら思い出していると、弾幕の中で二人の男たちが倒れていくのが見えた。 しかし、AK-47の偽物とはいえ中の機構は本家と同じだ。フルオートで連射すると五秒も持たないで弾倉が空になってしまう。(しまった……) 久しく扱って無かったのでAK-47の感覚を忘れていたようだった。ディミトリは倒れていた男たちから弾倉を回収した。(引き金の加減を思い出さなと……) 戦線での弾切れは死刑宣告と同じだ。弾切れを気にしないで戦うのは米兵ぐらいなもんだ。(こっちの方角か……) 男たちが居たということは、チャイカはこちらに逃げて行ったであろう方角に目星を付けた。(大きめの船倉区画だったよな……) 貨物コンテナが入っている大きい船倉のはずだ。普通なら追撃を諦める場面だ。 敵の勢力も分からない状態はかなり拙いからだ。それでもディミトリは止めなかった。(俺がどういう手術を受けたのかを聞き出さないと……) それは自分の本体の所在が何処に有るのかと、元に戻れるのかを聞きたかったのだ。 ディミトリは命の危険は感じて居なかった。チャイカは彼が持っている金の在り処を知りたがっていたからだ。(俺から金の在り処を聞き出すまではアイツは諦めないさ) そう考えてフッと笑いだした。
チャイカは右手に持った拳銃をディミトリに向けた。それは、元傭兵とは思えないお粗末な物だ。ディミトリなら銃を目の前に構えずに目算で撃ちまくる。一発でも当たれば御の字だからだ。 しかし、チャイカは手本取りに銃を構えようとした。ディミトリはすかさず拳銃を撃ち落とす。相手を撃つ時に銃を構える僅かな時間は命取りなのだ。床に転がる拳銃を呆気に取られて見つめるチャイカは、口の中で何かをゴニョゴニョ言っていた。『さてと、二人きりで話をしようじゃないか……』 ディミトリが流暢なロシア語で話し掛けた。チャイカは苦渋の表情を浮かべていた。『死ねよ、疫病神……』 しかし、チャイカは憎々しげに捨て台詞を言い放つと、手すりを乗り越えて海に飛び込んでいった。 チャイカは自分と同じくらいに、ディミトリは拷問が得意なのを知っているのだ。(え? お前は泳げなかったろう……) 唖然としたディミトリは直ぐにその事を思い出した。 直ぐに手すりの所に駆けつけたが、チャイカの姿はどこにも無かった。海面には波紋が広がっているだけだ。 チャイカは追い詰められて逃げていったのだ。『クソがっ!』 ディミトリは憮然としていた。後少しの所で獲物を逃してしまったのだ。悔しくて堪らないらしい。 彼はアカリに電話を掛けた。彼女は待っていたのか直ぐに出てくれた。『若森くん。 大丈夫?』「ああ、大丈夫……」『そう、良かった……』「お姉さんに変わってくれるかな?」『ええ』 電話をしながらもディミトリは海面から目を離さなかった。息継ぎしている所を狙いたかったのだ。 だが、チャイカは海面に出て来る様子は無い。彼も狙われていることを予期していたのであろう。 薄暗い海面ではこれ以上は無駄だと悟ったディミトリは引き上げることにした。「例のロシア人に逃げられてしまったよ……」『君のことを知っているようだったけど……』「誰かと間違えているんだろう」『……』 もちろん、ディミトリの嘘はアオイにはお見通しなのだろう。彼女は黙ってしまった。「俺の尻は白人のおっさんにとって好みのタイプなんだろうよ」『馬鹿……』 ディミトリは適当に茶化してみたが、余り効果はなかったようだ。却って怒らさせてしまった。 そこで、彼女に頼まれていた事を伝えた。「子供は一緒にいるから船の舷門まで車で迎えに来て欲しい」
ディミトリは部屋の中を物色しはじめた。シンイェンが子供なので興味を無くしたのであろう。 それよりも手がかりを探すことを優先したのだ。『お前の名前は?』『ワカモリ・タダヤス』『そう、タダヤスね……』 この部屋には目ぼしい物が無い事を悟ると出ていこうとした。『ふね おりる』『分かった』 ディミトリが言うとシンイェンは大人しく付いてきた。もっとも、ディミトリのシャツの裾を掴んだままだ。 もっとも、彼女には他の選択肢が無い。ここでディミトリに逸れると、嫌な思いをしなければならないと悟ったのだ。 彼女の今後はアオイと相談して決める事にした。警察に頼めない以上は密出国させる事になるが手立てが不明だ。 ディミトリは道すがら倒れている男たちの身体を調べ回った。武器や身分証を持っている袋に入れる為だ。 後でコイツラの背景を調べるのに必要だ。チャイカが逃げた以上は小さな手がかりでも欲しかったのだ。 チャイカの話から中国系の連中がクラックコアを施術したのは分かった。後はどうやったのかと戻れるのかが知りたかった。 それと自分の身体の在り処だ。(金を掻っ攫ったのなら元の身体に戻らないと楽しめないしな……) 自分を狙う理由が分かって心のモヤが晴れた気分だ。 次は中国系の連中をとっちめる必要がある。その為の下準備を始めるつもりだった。 シンイェンを連れて食堂に行くと全員机の下に潜っていた。銃撃戦が始まったので跳弾を避けるためだろう。 外国ではよく見る反応だ。 銃撃戦の中でポケーと突っ立ているのは日本人ぐらいだ。生活の中に銃が存在しないので仕方が無い面もある。『この中に船長は居るか?』 ディミトリが英語で尋ねると、一人の男が立ち上がった。他の者たちはディミトリを注視していた。 拳銃を腰の位置で構えたまま彼に向ける。銃に気が付いた船長は小さく手を上げた。『俺がそうだ』『密輸をやってた連中の仲間か?』 ディミトリは少しホッとした。密輸の仲間なら全員を殺るつもりだったからだ。憂いを残すのは後々トラブルになる。 だが、全員を殺るには弾数が少ないのが心配だったのだ。『俺は違う。 航海士が連中とつるんでいたんだよ』『そうか、あの連中は全員始末した』 ディミトリの言葉に食堂の船員たちはザワついた。 シンイェンはディミトリと船員たちを見比べていた。
車の中。 モロモフ号を下船したディミトリとシンイェンはアカリが運転する車に乗り込んだ。 見知らぬ二人に怯えているのか、シンイェンはディミトリのシャツを掴んだままだった。『ふたり なかま』『……』 ディミトリがそう言うと、シンイェンは二人に軽く会釈をした。「え、若森くんは中国語が出来るんだ」 アカリがビックリした様子で話し掛けてきた。彼女はディミトリの事をヤンチャ坊主だと思っていたのであろう。「簡単な単語を並べることしか出来ないけどね……」「それでも凄いよ。 私はアカリ。 宜しくね!」「私はアオイよ……」『林欣妍(リン・シン イェン)よ。 どうぞ宜しくお願いします』「彼女は宜しくと言っている」 スマートフォンの翻訳アプリを使えば、ある程度の意思疎通は可能だ。 だが、自分で喋ることが出来るのとは違う話だ。『ふたり しまい おまえ くらす』 そう言うとシンイェンは頷いていた。彼女たちが姉妹で、これからシンイェンの面倒を見てくれると理解したようだ。「これから彼女の面倒を見てやってくれ……」「え?」 アオイが戸惑ったような表情を見せた。どうやら助け出した後でどうするのかを考えていなかったようだ。「え…… って、お前が助けろと言うから助け出したんだじゃないか……」 困惑するアオイにディミトリが憮然として言った。 元々、助ける気など無かったので、彼女を故国に返す手立てなど考えてもいなかったのだ。 このまま押し付けられても子供の面倒など見ていられない。「それに中学生の小僧にどうしろと言うんだよ」「……」 都合の良い時には小僧の振りが出来る。中々、便利な立ち場だとディミトリは思っていた。「分かった…… とりあえずは私の部屋に連れて行く……」 アオイはディミトリの言うことも尤もだと思い、自分の家に連れて行くことにしたようだ。 シンイェンの方をちらりと見て、服を買ってあげないようと考えた。粗末な薄汚れたワンピースのままなのだ。「ああ、彼女の親の事や、拉致された経緯などを聞き出せば良い」 その上で、今後どうするか考えれば良いはずだ。 シンイェンの親が警察を頼りたければそうするし、そうでなければ違う方法で帰す手段を考える。「え? 親が警察を頼らない事ってあるの?」「犯罪組織同士のイザコザで誘拐されたって線も有るんだよ……」
アオイのマンション。 アオイは郊外のマンションを借りていたようだ。引っ越しを急に決めたので、不動産屋に選んでもらったらしい。 四人はひとまず部屋の中に入った。今後のことを話し合う為だ。「広くて明るい良い部屋だね」「ここしか開いていなかったのよ……」「3階建ての三階か……」 ベランダの窓から外を見ながらディミトリが呟いた。「ん? 部屋は良くないの?」「空き巣が一番狙いやすい部屋なんだよ」「そうなの?」「ああ、適度な高さだから住人が窓の鍵を掛けない事が多いせいなのさ」「君は何でも良く知っているのね……」「ネットで読んだだけで、全て知っているつもりのネット弁慶さ」 ディミトリはそう言いながら笑った。もちろん、押し込み強盗をした経験があるのは内緒だった。「んーーー、これが使えると思う……」 アカリが翻訳アプリを動作させてみた。携帯に向かって語りかけてアプリ側で翻訳して音声にしてくれるタイプのものだ。 港から帰ってくる間に、運転をアオイに替わって貰ってから探していたらしい。「こんにちわ」『你好(ニーハオ)』 流暢な中国語が携帯電話から返ってきた。話し合いが捗りそうな予感がしていた。「俺の片言中国語よりはマシだな……」 アプリの翻訳の様子を見たディミトリは、そう呟くと早速シンイェンに質問してみた。『これなら何とかいけるかもしれない……』『貴方の下手な中国語よりマシね』『それ酷い……』『冗談。 助けてくれてありがとう』『どう致しまして……』 シンイェンの表情が明るくなった。意思の疎通が出来るのが嬉しいのだろう。(すげぇ…… 便利な物だな……) ディミトリは技術の進歩には凄いものがあると感じてしまっていた。 所々、おかしい翻訳も有る気がするが、それでも何も出来ない寄りは遥かにマシだ。『貴方は日本の兵隊で特殊部隊か何かなの?』『いや、日本の中学生で帰宅部隊に所属している』『変なの…… クスクス』 シンイェンがケラケラと笑いだした。アオイやアカリも笑っていた。『シンイェンは何処に住んでいるの?』『香港』『親の商売は?』『マフィア』『え?』 ディミトリは思わず携帯を見返した。翻訳アプリが間違えているのではないかと思ったからだ。『マフィアだよ? 日本の盗品を中国で売っていると言っていた』 彼女自身は貿易商
『ところで何で日本にいるんだ?』 シンイェンは香港に住んで居たはずだ。ところが日本の港に停めてある船の中に居たのが解せなかったのだ。『日本の遊園地に遊びに来ていたのよ』『ああ、それでなのか……』 日本に来て気が緩んだ所を拐ったのだろう。 普通、この手の人質は大事にされる物だ。だが、彼女がぞんざいに扱われていたのを見ると、ロシア系の連中は誘拐とは無関係だったのだろう。 帰りの道中で他にも拐われた者は居ないと言っていた。シンイェンが予定外であったのだ。『君を親元に返したいんだが…… どうすれば良いの?』『電話を掛けさせて頂戴』『それは構わないが公衆電話を使ってくれ』『どうして?』『携帯電話は位置の特定が可能なんだよ』『……』『君のお父さんが警察に通報していると、俺達は面倒な立ち場になってしまうんだ』『……』『お兄さんもお姉さんも警察とは仲が悪いんだよ』『……』 シンイェンは部屋に居た三人を順番に見つめた。 香港でもそうだが、一般市民が銃を持っていることなど無い。しかも、彼らはこの手の事に手慣れているようだ。 彼女の拙い経験からも、普通の市民では無いことは明白だった。『分かった』 シンイェンは返事をした。彼らが敵では無いと理解できているだった。 何よりも先の見えない監禁生活から開放してくれた。彼女にとっては彼らは英雄なのだ。 アカリとアオイはシンイェンの服を調達しに出掛けていった。 ディミトリは彼女を連れて近くにあるコンビニやって来た。近所で公衆電話があるのはコンビニだけなのだ。 シンイェンに小銭を渡して国際電話の掛け方を教えてあげた。(公衆電話で国際電話が掛けられるとは知らなかったぜ……) 実を言うとアオイに聞くまで知らなかったのだ。百円単位なのでテレホンカードを用意しないといけないのが面倒だった。『済まないが録音させて貰うよ。 それから余り俺たちのことを詳しく話さないで欲しいんだ……』 電話する彼女の会話を録音する事にしていた。ヤバそうだったら逃げる為だ。 ディミトリは中国語が片言で分かると言っても無理がある。詳しい部分は後で翻訳ソフトで聞こうと考えていたのだ。『わかったわ……』 シンイェンは教えられた通りに電話を掛けた。相手は直ぐに出たようだ。ディミトリはそっぽを向いて聞かない振りをしていた。 電話
『なんて事だ…… ツライ目に合わせて申し訳ない。 日本なら大丈夫だと思ってたんだよ』『秦天佑(シン・チンヨウ)はお父さんが約束を守らないのが悪いと言ってた……』『約束も何も分前の増額を彼らが勝手に決めたんだよ。 言うことを聞くわけにはいかなかったんだ……』『……』『その後、直ぐに私を誘拐した犯人たちはロシア人たちに捕まったの』 シンイェンたちを連れ去って、自分たちのアジトに連れて行ったらしい。そこから香港に脅迫電話を掛けていたのだろう。 誤算は自分たちが誘拐されるターゲットにされてしまっていた事だ。 シンイェンを拐った事を知らなかったロシア人たちが、アジトを襲撃して全員を拐ったのだ。『それで連絡が付かなくなったのか!』 父親は交渉の最中に連絡が取れなくなり焦っていたようだった。『ええ。 彼らのリーダー以外は直ぐに殺されたみたい』『誘拐犯が誘拐されるなんて思いつきもしなかった……』『赤毛のロシア人だった……』『なんて名前の奴だ?』『皆はチャイカって呼んでいた』『チャイコフスキーか!』『やっぱり、知り合いなの?』 どうやら父親も知っているようだ。彼が自分の事を知っている風だったので不思議だったらしい。『私を助けてくれた日本の少年の事も知っていたみたいよ』『日本の少年?』『ロシア人は、その日本の少年の事を聞き出す為にリーダーを拷問に掛けていた』『見せられたのか!』『ええ、私の目の前で彼が死ぬまで続けていた』 誘拐犯を誘拐した理由はクラックコアの真相を聞き出す為だったらしい。 彼女に拷問の様子を見せたのはチャイカの残虐な性癖だ。さぞや満足したに違いない。 対峙した時に自信たっぷりだったのは、リーダーから詳細を聞き出していたからだ。 片言の中国語でも何が行われたのかディミトリにも理解は出来た。『その日本の少年がお前を助けてくれたのか……』『ええ、やたらと闘いに慣れている日本の少年』『兵士とか警察じゃなくて?』『私の代わりに変態どもを皆殺しにしてくれたわ』 シンイェンは憮然として答えた。 彼女が泣かなかった理由が理解できた。子供には過酷な行為を強いられた来たのだ。 心を閉ざして感情を殺すしか術が無かったのだ。『変態どもって…… なんかされたのか?』『……お尻が気持ち悪くてたまらない……』『……』 言葉に
コンビニからの帰り道。 シンイェンはコンビニで買って貰ったお菓子が気になるようだ。袋の中を時々眺めてニコニコしている。 きっと、身内と連絡が取れて気が緩み始めたに違いない。スキップしながら歩いているのが証拠だ。 一方、ディミトリは録音しておいたシンイェン親子の会話を翻訳ソフトを通して聞き直していた。 シンイェンの父親が警察に届けているか気になっていたからだ。 だが、父親は届け出はしなかったようだ。話の内容からして父親は黒社会と深い繋がりがあるらしい。 彼からすれば警察に届けても、まともに聞いて貰えないと考えたのかも知れない。(まあ、その辺はどうでも良い……) 娘の無事を喜んでいるようなので、直ぐに敵に廻るとは考え難かったのだ。(チャイカの本名を父親は知っているのか……) シンイェンの父親はチャイカを知っていた。ならばディミトリの事も知っているかもしれない。 その辺は彼に逢って話を聞き出そうと考えていた。ひょっとしたらクラックコアの詳しい話を聞ける可能性があるのだった。(チャイカは裏社会とコネ付けるのが上手いからな) きっと、同じ様な匂いに惹かれ合うんだろうと考え、ディミトリは鼻で笑ってしまった。 自分もそうだからだ。(つまり俺は中国の黒社会でも人気者って事なんだな……) そう考えると笑いがこみ上げて来てしまった。 世界中の犯罪組織を敵に回しているかも知れない状況に笑うしか無いと思っているのだ。 クスクス笑いながら歩いているとシンイェンが不思議そうな顔で見ていた。 アオイのマンションに到着すると、アオイとアカリの姉妹は先に帰っていた。そして、シンイェンを別室に連れ込み『カワイー』と言いながらシンイェンを着替えさせている。別室に運びきれ無かった着替えが部屋の大部分を占めていた。 ディミトリは所在なさげに居間で待たされた。その間も翻訳されたシンイェン親子の会話をチェックしていた。 着替えが済んで再び現れた彼女は愛らしい少女に変身していた。『おまえ かわいい』 ディミトリのお世辞にシンイェンは顔を赤くして照れていた。 シンイェンと父親との電話の内容をアオイたちに伝えた。「シンイェンのお父さんが明日には香港から来日するそうだ」「そうなの?」「ああ、その時に彼女を父親に渡してお終いだ」「良かったね」 姉妹は口々にシンイ
自宅にて。 ディミトリは剣崎と連絡を取る事にした。「むぅーー……」 ディミトリは机の引き出しに放り込んでおいたクシャクシャにした名刺を広げながら唸っていた。 あの男から有利な条件を引き出す交渉方法を考えていたのだ。(ヤツは俺がディミトリだと知っているんだよな……) それどころか邪魔者を次々と処分したのも知っているはずだ。なのに、逮捕して立件しようとしないのが不気味だった。(金にも興味無さそうだし……) 金に無頓着な人種もいるが稀有な存在だ。自分の身の回りには意地汚いのしか寄って来ないので都市伝説ではないかと疑っているぐらいだ。「ふぅ……」 ディミトリは考えるのを諦めて、携帯電話に電話番号を入力した。 剣崎は電話が来ることを予見していたのか、直ぐに電話に出たきた。『やあ、そろそろ電話が来る頃だと思っていたよ』 相変わらずの鼻で括ったような物言いだった。ディミトリは携帯電話から耳を離し、無言で携帯電話を睨みつけた。「ああ、そうかい。 少し逢って話をしたいんだが……」 気を取り直したディミトリは挨拶もせずに用件を伝えた。『別に構わないよ。 何処が良いんだね?』「デカントマートの駐車場はどうだい?」『ふむ。 いざと成れば手軽に行方を眩ませることが出来るナイスな選択だね』「人目が有った方がお互い安全だろ?」『アオイくんを迎えにやるよ』「分かった」『アオイくんは私の命令で見張りに付いていたんだ。 殺さんでくれたまえ』「分かったよ…… 家の前で待っている」 自宅の前で待っていると、車でアオイが迎えに来た。 ディミトリは後部座席に座り、自分の鞄から反射フィルムを取り出した。これは窓に貼るだけでマジックミラーのようになるものだ。 貼っておけば狙撃者
「この後。 ホームセンターに行ってくれ」「良いですよ。 何か買うんですか?」「灯油を入れるポリタンクを買いたいんだよ」「分かりました」 ホームセンターに行き灯油用ポリタンクを十個程手に入れた。それと一緒にオリーブグリーンのビニールシートも購入した。 それと血痕を掃除する洗剤なども買った。「何に使うんですか?」「灯油を入れるポリタンクって言ったろ……」 ディミトリたちは、そのまま複数の給油所に行き、次々と灯油を購入していった。 一箇所だと怪しまれるのでポリタンクの数分だけ給油所を回っていった。「同じとこで入れれば時間の節約になるでしょう」「一箇所で大量に灯油を購入すると怪しまれるだろ?」「そう言えばそうですね……」「何事も慎重に行動するんだよ」「……」「アンタは何も考えずに行動するから面倒事になっちまうんだ」「はい……」 田口兄は訳も分からずに手伝っていた。ディミトリは買って来た灯油はヘリコプターに積み込む予定だ。 あたり前のことだがヘリコプターを飛ばすには燃料が要る。 本来ならジェット燃料がほしかったが、個人でジェット燃料など購入することは結構難しい。一般的に使われる類いの燃料では無いので売って貰えないのだ。 そこで代替燃料として灯油に目を付けたのであった。本当は軽油が良かったが、ポリタンクで軽油を購入するのは目立つのでやめた。 基本的にジェット燃料と灯油や軽油の成分は一緒だ。違うのは含水率と添加剤の有無だ。 もちろん、正規の物では無いのでエンジンが駄目になってしまう可能性が高い。それでも手に入れておく必要があった。(剣崎の野郎と会う必要が有るからな……) 何故ヘリコプターの燃料を心配しているかと言うと、近い内に公安警察の剣崎に会う必要が有るからだった。 相手の考えが読めないので、脱出手段の一
大通りの路上。 田口兄が車でやってきた。一人のようだ。「よお……」「どうも、迷惑掛けてすいません……」 ディミトリは憮然とした表情で挨拶をした。 田口兄は愛想笑いを浮かべながら、自分の問題を解決してくれたディミトリに感謝を口にしていた。「……」 ディミトリは田口兄の挨拶を無視して車に乗り込んでいった。「俺の家に帰る前に寄り道してくれ」「はい」 田口兄は素直に返事していた。年下にアレコレ指図されるのは気に入らないが、相手がディミトリでは聞かない訳にはいかない。 何より怒らせて得を得る相手では無いのを知っているからだ。「何処に向かえば良いですか?」「これから言う住所に行ってくれ……」 そこはチャイカたちが使っていた産業廃棄物処分場だ。 確認はしてないがそこにジャンの所からかっぱらったヘリが或るはず。その様子を確認したかったのだ。 処分場に向かう間も無言で考え事をしていた。田口兄はアレコレと他愛もない話をしているがディミトリに無視されていた。 やがて、目的の場所に到着する。山間にある場所なので人気など無い。道路脇に唐突に塀が有るだけなので街灯も何も無かった。 産業廃棄物処分場の入り口には南京錠が取り付けられている。ディミトリは中の様子を伺うが人の気配は無いようだった。「なあ…… ワイヤーカッターって積んである?」 きっと泥棒の道具として、車に積んでいる可能性が高いと考えていた。「ありますよ。 コイツを壊すんですか?」「やってくれ」 田口兄はディミトリに初めてお願いされて、喜んでワイヤーカッターで南京錠を壊してくれた。 後で違う奴に付け替えてしまえば多分大丈夫と考えていた。 中に入るとヘリコプターは直ぐに分かった。ヘリコプターは処分場の中程にある広場のようになった真ん中に鎮
『はい……』「帰りの足が無くて往生してるんだ」『はい……』 ディミトリは電柱に貼られている住所を読み上げた。田口兄は十五分程でやってこれると言っていた。『あの連中は何か言ってましたか?』「ああ、鞄を返せとは言っていたが、それは気にしなくて良い」『どういう事ですか?』「話し合いの最中にバックに居る奴が出て来たんだよ」『ヤクザですか?』「そうだ」『……』「ソイツの組織と別件で前に揉めた事があってな……」『あ…… 何となく分かりました……』「ああ、かなり手痛い目に合わせてやったからな」『……』 ディミトリの言う手痛い目が何なのか察したのか田口兄は黙ってしまった。「俺の事を知った以上は関わり合いになりたいとは思わないだろうよ」『い、今から迎えに行きます』 田口兄はそう言うと電話を切ってしまった。 大通りに出たディミトリは、道路にあるガードレールに軽く腰を載せていた。考え事があるからだ。 帰宅の心配は無くなった。だが、違う心配事もある。(本当に諦めたかどうかを確認しないとな……) 追って来ない所を見ると諦めた可能性が高い。だが、助けを呼んでいる可能性もあるのだ。確かめないと後々面倒になる。 その方法を考えていた。(家に帰って銃を持って遊びに来るか…… いや、まてよ……) そんな物騒な事を考えていると、違う方法で確認出来る可能性に気が付いた。(剣崎が灰色狼に内通者を持っているかもしれん……) ディミトリの見立てでは剣崎は灰色狼に内通者を作っていたフシがある。 灰色狼は日本に外国製の麻薬を捌く為
隣町の路上。 店を出たディミトリは、大通りの方に向かって歩いていった。なるべく人通りが或る方に出たかったからだ。 彼らが追撃してくる可能性を考えての事だった。相手が戦意を失っている事はディミトリは知らなかった。だから、追撃の心配は要らなかった。 だが、違う問題に直面していた。(う~ん、どうやって家に帰ろうか……) 学校帰りに大串の家に寄っただけなので、手持ちの金は硬貨ぐらいしか持っていない。ここからだとバスを乗り継がないと帰れないので心許ないのだ。(迎えに来てもらうか……) そう考えたディミトリは、歩きながら大串に電話を掛けた。 まさか、バーベキューの串で車を乗っ取るわけにもいかないからだ。「そこに田口はまだ居るのか?」『ああ、どうした?』「田口の兄貴に俺に電話を掛けるように伝えてくれ」『構わないけど……』 大串が言い淀んでいた。気がかかりな事があるのは直ぐに察しが付いた。「田口の兄貴を付け回していた車の事なら、もう大丈夫だと言えば良い」『え!』「お前の家を出た所で、田口の兄貴を付け回してた連中に捕まっちまったんだよ」『お、俺らは関係ないぞ?』前回、騙して薬の売人に引き合わした事を思い出したのだろう。慌てた素振りで言い訳を電話口で喚いている。「ああ、分かってる。 連中もそう言っていた」『……』「きっと、見た目が大人しそうだから言うことを聞くとでも思ったんだろ」『無事なのか?』「俺が誰かに負けた所を見たことがあるのか?」『いや…… 相手……』「大丈夫。 紳士的に話し合いをしただけだから」『でも、それって……』「大丈夫。 今回は殺していない……」『&helli
「この通りだ……」 ワンは銃を机の上に置いた。そして、両手を開いて見せて来た。「なら、その銃を寄越せ……」 ワンは銃から弾倉を抜いて床に置き、足先で滑らせるように蹴ってきた。ディミトリはそれを靴で止めた。「アンタに弾の入った銃を渡すと皆殺しにするだろ?」(ほぉ、馬鹿じゃ無いんだ……) 彼の言う通り、銃を手にしたら全員を皆殺しにするつもりだった。 ワンはそれなりに修羅場をくぐっているようだ。 ディミトリは滑ってきた銃をソファーの下に蹴り込んだ。これで直ぐには銃を取り出せなくなるはずだ。「鶴ケ崎先生はどうなったんだ?」「おたくのボスに殺られちまったよ」「……」 どうやら、灰色狼は組織だって動いて無い様だ。誰が無事なのかが分かっていないようだ。「それでボスのジャンはどうなったんだ?」「さあね。 ヘリにしがみ付いていたのは知ってるが着陸した時には居なかった」「殺したのか?」「知らんよ。 東京湾を泳いでいるんじゃねぇか?」(ヘリのローターで二つに裂かれて死んだとは言えないわな……) 手下たちは額に汗が浮かび始めた。さっきまで脅しまくっていた小僧がとんでも無い奴だと理解しはじめたのだろう。「ロシア人がアンタを探していたぞ……」「ああ、奴の手下を皆殺しにしてやったからな…… また、来れば丁寧に歓迎してやるさ」 ディミトリは不敵な笑みを浮かべた。 ワンは少し肩をすぼめただけだった。どうやらチャイカと自分の関係を知らないらしい。「俺たちは金儲けがしたいだけだ。 アンタみたいに戦闘を楽しんだりはしないんだよ」「……」 やはり色々と誤解されているようだ。自分としては降りかかる火の粉を振り払っているだけなのだ。結果的に
ナイトクラブの事務所。 ディミトリは弱ってしまった。部屋に入ってきた男はジャンの部下だったのだ。そして、この連中はコイツの手下なのだろう。 折角、滞りなく帰宅できるはずだったのに厄介な事になりそうだ。(参ったな……) ディミトリは顔を伏せたが少し遅かったようだ。男と目が合った気がしたのだ。「お前……」 入ってきた男が何かを言いかけた。その瞬間にディミトリは、右袖に仕込んでおいたバーベキューに使う金串を、手の中に滑り出させた。こんな物しか持ってない。下手に武器を持ち歩くのは自制しているのだ。 ディミトリは車で送ってくれると言っていた男の髪の毛を引っ張って喉にバーベキューの串を押し当てる。 これならパッと見はナイフに見えるはず。牽制ぐらいにはなると踏んでいるのだ。 いきなり後頭部を引っ張られてしまった相手は身動きが出来なくなってしまったようだ。何より喉元に何かを突きつけられている。 兄貴と呼ばれた男と部屋に居た残りの男たちも動きを止めてしまった。「動くな……」 ディミトリが低い声で言った。優等生君の豹変ぶりに周りの男たちは呆気に取られてしまっている。 しかし、入ってきた男は懐から銃を取り出して身構えていた。ディミトリの動きに反応したようだ。「え? 兄貴の知り合いですか?」「何だコイツ……」 部屋に居た男たちはいきなりの展開に戸惑いつつ兄貴分の方を見た。「ちょ、待ってくれ!」 だが、兄貴と呼ばれた男が意外な事を言い出した。(ん? 普通はナイフを捨てろだろ……) ディミトリは妙な事を言い出した男に怪訝な表情を浮かべてしまった。「俺は王巍(ワンウェイ)だ。 日本では玉川一郎(たまがわいちろう)って名乗っているけどな……」「ああ、ジャンの手下だろ…… 倉庫で
「田口君のお兄さんが鞄を持って行ったって何で解ったんですか?」 大串の家で聞いた限りでは誰にも見られていないはずだ。だが、現に田口の家ばかりか交友関係まで把握しているのが不思議だったのだ。「防犯カメラに田口が鞄を弄っている様子が映ってるんだな」 一枚の印刷された画像を見せられた。防犯カメラと言うよりはドライブレコーダーに録画されていたらしい画像だ。 黒い革鞄と田口兄が写っている。それと車もだ。ナンバープレートも写っていた。(泥か何かで隠しておけよ……) 泥棒は車で移動する時にはワザと泥などでナンバープレートを隠しておく。防犯カメラに備えるためだ。「鞄を返せと言えば良いだけだ」「鞄の中身は何なの?」 何も知らないふりをして質問してみた。「中身はお前の知ったこっちゃない」 男はディミトリをギロリと睨みつけながら言った。「まあ、そんなに脅すなよ。 中身はそば粉と子供玩具と湧き水を容れたボトルさ」「?」 子供騙しのような嘘だとディミトリは思った。「この写真を見せながら言えよ?」 ボス格の男はそう言うと何枚かの写真を投げて寄越した。 写真には田口と田口兄。それと一組の夫婦らしき男女の写真と、小学生くらいの女の子の写真があった。田口の家族であろう。 最後は故買屋の防犯カメラ映像だ。鞄の処理の前に銅線を売りに行ったらしい。 普通の窃盗犯であれば仕事をした後は暫く鳴りを潜めるものだ。そうしないと探しに来る者がいるかも知れないのだ。(ええーーーー…… 素人かよ……) 余りの幼稚な行動にめまいがしてしまった。「そば粉なら、また買えば良いんじゃないですか?」 ディミトリは話の流れを変えようと言い募った。 窃盗した後に迂闊な行動をする馬鹿と、見張りも立てずに取引物をほったらかしにする素人など相手にしたくなかったのだ。「そば粉は別に良い。 ボトルを返せと言えば良い……」 ここで、ピンと来るモノがあった。(そば粉だと言う話は本当だろう……) 見つかった時の言い訳用だ。拳銃が玩具だというのも本当だろう。万が一、職務質問で見つかっても警察が勘違いだと思わせることが出来るはずだ。 ボス格の男が色々と蕎麦に関してのウンチクを並べているがディミトリの耳に入って来なかった。(だが、ボトルの中身は…… 麻薬リキッドだな……) ディミトリはボトル
大串の家の近所。「いいえ、別に友達ではありません……」 ディミトリは警戒して言っているのでは無い。本当に友人だとは思って居ないのだ。「でも、田口のツレの家から出てきたじゃねぇか」 男の一人が大串の家を顎で示しながら言った。 これで男たちが田口を尾行して、彼が大串の家を訪ねるのを見ていたと推測が出来た。「学校でクラスが同じなだけです……」 ちょっと、面倒事になりそうな予感がし始め、ディミトリは警戒感を顕にしていた。「ちょっと、オマエに頼みたいことが有るんだ」 男が手で合図をすると車が一台やって来た。やって来たのは白の国産車だ。 大串たちの話ではグレーのベンツだったはずだが違っていた。「ちょっと、付き合ってくれ」 開いた後部ドアを指差した。「クラスの連絡事項を伝えに来ただけで、僕は無関係ですよ?」 妙齢のお姉さんであれば喜んで乗るのが、おっさんに誘われて乗るのは御免こうむるとディミトリは思った。「田口に届け物を渡して欲しいんだよ」「それなら、おじさんたちが直接渡したらどうですか?」 ディミトリは尚もゴネながら逃げ出す方法を考えていた。「良いから。 乗れって言ってんだろ?」 ディミトリを知らないおっさんは頭を小突いた。瞬間。頭に血が上り始めた。(くっ……) だが、人通りもあって我慢する事にしたようだ。今はまだディミトリは冷静なのだ。ここで、喧嘩沙汰を起こすと警察が呼ばれてしまう。それは無用な軋轢を起こしてしまう。 それに相手は中年太りのおっさんが三人。ディミトリの敵では無い。チャンスはあると思い直したのだった。(周りに人の目が無ければ、コイツを殺せたの……) ディミトリは残念に思ったのだった。 こうして、ディミトリは大串の家から出てきた所を拉致されてしまった。 連れて行かれたのは中途半端な繁華街という感じの商店街。端っこにあるナイトクラブのような地下の店に連れ込まれた。 まだ、開店前らしく人気は無かった。その店の奥にある事務所に連れ込まれた時に、白い粉やら銃やらをこれ見よがしに置かれているのを見かけた。(ハッタリかな……) まるで無関係の奴に見せても益が無いはずだ。ならば、ハッタリを噛ませて言うことを効かせようという魂胆であろう。 ヤクザがやたら大声で威嚇するのに似ていた。「よお、坊主…… 済まないな……」